2009年11月14日 (土)

遅ればせながら「ザ・ゴール」を読みましたが…。

遅ればせながら、エリヤフ・ゴールドラット著「ザ・ゴール」を読みました。

近年のマネジメントの世界での常識的知見ともなっている「部分最適の総和は全体最適

に劣る」と云う考え方が小説仕立てで語られており、経営学に馴染み薄い一般の読者

にも容易に理解出来るように書かれています。

ところで、私はいつものようにボンヤリと、経営学を学んでおられる方々と経済学、とりわ

け古典派と云われる学問領域に属する人々の思想は極めて類縁性の高いものである

と、勝手に思い込んでおりました。

図式的に申し上げるならば、古典派経済学的思想を中心に同心円的に派生した学問、あ

るいは経済学の各論、が経営学であると云う漠然とした印象を持っておりました。

しかしながら、当該書籍のテーマの一つである「マネジャーによる全体最適至上主義」は

まさに社会主義的計画経済の思想に相当するのではないでしょうか。

アダムスミスが、デイヴィッド・リカードが、そして彼らの素晴らしき思想を今日もなお信奉

して已まない現代の支配的なエコノミスト全て(まさしく、新古典派、マネタリスト、サプライ

サイド、合理的期待形成学派・・・。マルキシズムやケインジアンは別として何と呼ばれる

流派であろうと)は「完全競争下に於いては、各プレイヤーが利己的に振る舞うことによっ

て、最適な資源配分が行われ全体の福利を実現することが出来る」と信じています。

この思想はまさに部分最適が全体最適を導出することを語っておるのではないでしょう

か。経営学のフロンティアと近代経済学の支配的思想との乖離/背反がこれ程大きなも

のとは思いませんでした。それとも、マーケットが全うに機能するメカニズムを業務改善な

どのミクロなマネジメントの領域にパラフレーズして解釈するのは間違っているのでしょう

か。

おそらくは私の誤りでしょう。その道にお詳しい方がいらしたらご教示いただきたいもので

す。

2009年7月11日 (土)

こう生きるのが正しい!~私めの人生の目的~

「こう生きるのが正しい!」と銘うちましたように、私めには自らの人生の目的をぼんやりと見上げつつ日々を過ごしております。
では、私めの人生の目的とは何か。
それは、ズバリ「善く生きる」ことでございます。

一般に「真・善・美」と云う価値は、おのおの別個の独立した価値である、と考えられておるようでございますが、
私めの中では、これらは同じ一つの絶対的な価値の異なる位相に過ぎない、あるいは誤解を恐れずに申し上げれば、3種の現象でしかない、と捉えております。

たとえばよく、「善と美は何の関係もない」と仰る方は、ワイルドやポー等の耽美派とか悪魔主義と云われる芸術を引き合いに出して「悪なる美」を証拠立てられます。
あるいは、はなはだしく粗忽な議論に至っては、「真善美などは相対的な価値観に過ぎない。時代や文化が異なれば正しいことも良いことも違ってくる。それが証拠に、戦争中は人殺しが善と看做されるじゃないか。」などと、もっともらしい賢しらを述べる方が多うございます。
平時だろうが戦争中だろうが、人殺しは善であろうはずがない。人殺しが善ならば家族隣人ともども皆殺しにした者は英雄でございましょう。
仮に正気を失った者が人殺しを善と思い込んだ場合、あるいは知能は確かであって人殺しを善と信じ込んでいる場合であったとしても、その者の心の中では「善は善、悪は悪」でございましょう。

私めは、肉体的な快楽がもたらす刹那的感覚的な美など美ではない、とキッパリと申し上げたい。
ましてや、真善美の相対性なぞと云う低いレベルの議論を反身になって得意げに話すのは愚の骨頂と申し上げざるを得ないところでございましょう。
不思議なことでございますが、私たちは「美しいもの」を「美しい」と思い、「善なるもの」を「善い」と思うのでございます。
これは普遍的かつ絶対的なことでございます。
いかに、きたない、醜いものを指して「美しい」と仰る方が居ようとも、その方ですら「美しいこと、とは、美しいことである」ことに何ら変わりはございませんでしょう。
私めは、プラトンの云うイデアのことを申し上げております。かなり難しい議論であることは間違いございませんが、
ここを通らずして(このトートロジーを理解しないと)真善美の普遍性を理解することは出来ないのでございます。

お話を私めの人生観に戻しますが、申すまでもなく、有限な吾々人間の感覚で「絶対者」を認識することなど不可能でございます。
したがって、究極の存在を追い求めるならば、勢い便宜的に先の「真善美」を求めざるを得ないのでございます。
それが、私めの選択では「善」であると云うわけでございます。
では、真も美どうでも良いのか、と云いますとそんなことは全くございません。
何度も同じことを申しますが、真善美は便宜上の区分であり、云わば「登山の際の3つのルート」のようなものでございます。

ここで、登山ルートと云うのははなはだマズイ比喩である、ことに気付いてしまいました。私めが理想とする生き方は、「真」を求めることによって「善」を生きる、ことでございます。
ですから、単視眼的な私の日常生活に於いては知恵を求めることが日々の実践課題でございます。
本物の知恵を得ることによって結果的に善い人生が与えられる、と云う厳しくも実に楽観的な目的迄の道程を思い描いて生活しているのです。

2009年7月 4日 (土)

正しい淳子様ファンのあり方!

番頭めは、「faem」と云う名前でコメントさせていただいております。

淳子様に限ってのお話ではございませんが、所謂アイドルのファンの皆様はどうも、視野の狭い、頑なな方が多いように感じております。

それから、ファンクラブなどのお身内同士の仲間意識が強すぎて、外部の、(この番頭めのような)少し毛色の違うものに対しては極めて排他的なスタンスでぶつかってこられる方が多いと感じております。

また、淳子様の芸能界引退(休業でも追放でもなんでも良いのですが)の折の現象について、古くからの淳子様ファンの方は一部のマスコミによる淳子様のスケープゴート化、と云う出来事を充分理解しているにもかかわらず、ファンサイトの中では自分たちの気に入らない新参者に対しては同じことをしていることに気付いていないようでございます。

淳子様が大好き、と云う同じ気持ちを共有する者に対して、もっと温かい目を向けるべきでございましょう。

寛容と忍耐によって「礼節」が養われます。礼節とは何も世間様と馴れ合い的な関係の持続や功利的な目的に資するのもではございません。そんなつまらぬものならばわざわざ孔子が強調したりする訳はございません。

究極的には自らの精神を守ることでございます。

自分のために他人に優しく。まさしく「情けは人の為ならず」でございましょう!

2008年11月 2日 (日)

まだまだ慣れないせいか、気持ちが盛り上がりません。

ブログを始めたのは良いのですが、ブログと云うものの全体の構造が理解できていないために更新していこうと云う意欲が湧かないのでございます。

いかんいかん!

とりあえず、何でもいいから書くぞ!でございます。

本日は、宮沢賢治の詩と聖書(ロマ書)、そしてミクロ経済学の入門書を読みました。

ミクロ経済学は、通勤の時間に勉強いたしましょう。

疲れたら、ウトウト居眠りをしたり、立原道造の詩の朗読CDを聴いて痛勤を緩和いたすつもりでございます。

番頭めは、人生の行方が見定まらず、未だに心が揺れるガラス細工の中年でございます。

2008年10月26日 (日)

「番頭」と申します。

皆さま、はじめまして。

私めは、番頭と申すシガナイ中年賃労働者にございます。

私め、本日ただいまよりブログなる電脳世界へデヴューいたします。

これより、愚かなる私めの自己紹介をはじめ、様々な世界や世の事象に関する思いを書き連ねてまいりたいと存じます。

御贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。

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